近代セールスの父 J.H.Patterson

近代セールスの父、
ジョン・ヘンリー・パターソン
1844-1922

南北戦争前、ジョン・ヘンリー・パターソンは、少年時代を米国オハイオ州の小さな町デイトン(人口1万人)のすぐ南にある生家の農家の手伝いをして過ごしました。父親の農家の小屋でできるベーコン、貯蔵室の糖蜜、製粉小屋の小麦粉やひき割りとうもろこしを売るのに、少年はいちいちその場所に取りにいかなければなりませんでした。時には代金の記帳もれもありました。「よく夜中に父に起こされて、品物を買っていった人の掛売代金を確かに付けたのかと聞かれたものだ」、「また食事中に『サンダースさんの砂糖の代金を付けたかい』と尋ねられて、『付けてません』と返事をしなければならないこともあった」とパターソンは当時を回想して話しています。

1870年代、パターソンと弟のフランクは石炭の販売業を始めて成功しましたが、この時の経験からパターソンは、品物は署名した受領証と引き換えでなければ渡さないこと、掛売りの際は契約書を交わすこと、などの経営方針を立て、実践することになりました。地下の石炭小屋に実際に石炭を投げ入れるところを見ていないという理由で、石炭半トン分お代金を払おうとしない客がよくあったからです。

パターソンがレジスターと初めてであったのは、弟と経営していたオハイオ州コールトンの小さな小売店です。パターソンは機械の操作説明書を読むと、実物も見ないで早速2台注文しました。機械が入って6ヶ月で店の負債は16,000ドルから3,000ドルに減り、5,000ドルの利益があがりました。不正確な記録と横領がたちどころに減少したのです。すっかりレジスターが気に入ったパターソンはさらに2台注文しました。

レジスターは無秩序と不正という古くからの間題に歯止めをかけました。今風にいえば、トランザクション処理、すなわち商品とサービスの正確な取引記録に対する市場ニーズがあったのです。

パターソンは苦い体験から、リッティの考案によるレジスターが重要な発明であることを確信しました。 1884年12月、パターソンは6,500ドルでレジスター会社のナショナル・マニュファクチャリング・カンパニーを買い取り、すぐに“The National Cash Register”と名前を変更することにしました。しかしその直後にパターソン兄弟はこの会社が損失を重ねていることに気がつき、2,000ドルでこの取引をキャンセルしたいと申し出ました。ところが売り主は、パターソンに「あなたはもう株を買ってしまったのですよ。もしあなたが、もう現金を支払ってしまって、私も株をあなたに渡してしまった後だとしても、私はそれを、贈り物としてでも返してもらおうとは思いませんよ」と告げました。

決意を固めたパターソンは、一見無謀ともおもえるナショナル・マニュファクチャリング・カンパニーの買収を行い、3日後パターソンは早くも国内各地でセールス・エージェントの勧誘を始めました。

パターソンが経営を引き継いだ1884年までのナショナル・マニュファクチャリング・カンパニーのキャッシュ・レジスター(ベル、引出し、レシート機能のない機種)の販売台数はわずか359台にすぎませんでした。以降、パターソンはさして大きくない資産と全精力を企業の取引記録を可能にするこの機械の製造販売にささげました。

パターソンは成功の鍵はセールス・エージェントにあると確信し、片時も教育の手を休めませんでした。パターソンはセールス・エージェントと常に接触を保つ一連の方法、すなわちコンベンション、トレーニング・スクール、出版物、広告資料、訪問などの活動を実行しました。

パターソンがナショナル・キャッシュ・レジスター社の社長に在任した約40年間に、その薫陶を受けた幹部社員は数知れません。これらの幹部社員が転職するにつれ、パターソンから学んだ経営の方法と理念も社外に広まりました。これらの人々はNCRで企業経営を成功に導く方法について実に良く訓練を受けていたので、1910年から1930年にかけて米国企業のトップマネジメントの約6分の1はNCRの出身者が占めていました。

最初の工場は、1888年にパターソンの農地に建設されました。その同じ年に自ら「駆け足旅行」と呼んだ、営業所の視察を始めました。この年パターソンは、汽車でピッツバーグ、ワシントン、フィラデルフィア、ボルチモア、トレントン、ウィルミントン、ニューヨーク、スクラントン、エルミラ、バッファロー、クリーブランド等を「駆け足」で訪問しました。この時すでにNCRには1,000名以上のエージェントがいました。

NCRのセールス・エージェントはパターソンの義弟、ジョセフ・H・クレーンの編み出した効果的商談の進め方を元にした450語の手引書を暗記させられました。

パターソンはセールス・エージェントの訪問を続け、16ページの手引書について質問を行い、手引書の学習を拒んだり、手引書を暗記していないエージェントを厳しく叱責しました。
1893年、パターソンはアメリカで最初のセールス訓練学校を開設しました。校舎はNCRの工場の近くの小さな建物で、「ニレの木の下の小屋」と呼ばれ、セールス・エージェントに「商売がもっとうまくいくのを手助けするための最良の方法」を教えました。

NCRの全ての歴史の中で最も有名な写真の一つが、この、若い女子社員が昼食のコーヒーを工場のラジエーターで暖めている写真です。

これをきっかけにパターソンはその後さまざまな福利厚生制度を実施するようになりました。

女子社員に対し完全給食を行おうとしましたが、はじめ彼女たちは辞退しました。彼女たちは「施し」は受けたくないと思っていたからです。これは食事代として5セント徴収することで解決されました。

1895年、400人の女性用社員食堂が作られました。1週間で病気の人が18%から2%に減少しました。

工場内の医療部、全社員のための共同休暇旅行、子供のためのさまざまなプログラムなどを実施しました。一部の他の事業家たちは、パターソンのこうした福利計画を「社員に対して過保護だ」と批判しました。しかしパターソンは社員に対するこのような家族主義的な優遇措置は、特にこの時代、ビクトリア朝時代の女性達にとっては、正しいことであるだけではなく、ビジネスにも役に立つと信じていました。

1893年に建てられた最初の「陽の射し込む明るい工場(デイライト・ファクトリー)」は、採光と新鮮な空気を取り入れるため床から天井まで開閉自在の窓になっていました。現代のカーテン・ウォール方式ビルの起こりとなったこの設計理念は、今日全世界のNCRの建物に受け継がれています。

機械は全て明るい緑色に塗り、吸塵フードとあらゆる安全装置を設備し、立派な浴室、ロッカー・ルーム、女子化粧室、病院、救護室および診察室を備え、女子工員には清潔なエプロンと袖カバーを無料で支給しました。

1890年代にパターソンは、「THINK!(考えよ)」という標語を書いたポスターを、全世界の営業所や工場のあらゆる壁に張りました。そして社員の考えや提案を仕事の手順や製品決定に反映させるために工場内の随所に提案箱を設置し、社員の個性を育成しました。

セールス・エージェントはテリトリーをもち、その地域での売上に対しては、必ず報酬が保証されました。また責任額を定めることによって、販売の能率と業績をはっきりと測ることができました。

パターソンは、海辺への休暇旅行や、1904年にセントルイスで開催されNCRパビリオンが出展されたワールドフェア等に、全社員を連れて行きました。

パターソンはあらゆる手段を用いて製品を一般の人々に紹介しました。セールス・エージェントを支援するため、会社は『アウトプット』という名の片面刷りのパンフレットを発行し、販売成果とレジスターの利点を紹介し、ユーザーの感謝状を掲載しました。

『アウトプット』の郵送部数は1888年には135,000部に達していました。これはダイレクトメールの”はしり”です。

その後「商店向け」や「飲食店向け」などに編集された『ハスラー』誌が発刊されました。『ハスラー』には見込み客用に、「詳しい説明書を送れ」と記入した返信用はがきを入れてありました。

1894年までには『ハスラー』をはじめとするダイレクト・メールは50万通に達し、NCRの郵便物を扱うだけのためにデイトン郵便局は局員を1人余計に雇わなければなかったほどです。

最初の社内報『N.C.R.』は1887年6月に発刊されました。
1891年に発行された『ファクトリー・ニュース』も会社方針の説明や営業部員への連絡に利用されました。

セールス・コンベンションは後にCPC(100ポイント・クラブ)と呼ばれるようになりましたが、1887年以降今日までNCRの最も重要な年中行事の一つです。

パターソンは、「この大会に参加すれば誰でも必ず今までの倍以上のレジスターが売れるようになる」といって、エージェントが販売活動の時間を割いてでもコンベンションに参加するよう勧めました。

これは1898年デイトンのビクトリア劇場で開催された国際色豊かなNCRセールス・コンベンションの様子です。

NCRの製品が市場で受け入れられはじめると、待ち構えていたように競合企業が次々と出現し、会社の製造販売活動は新たな挑戦を受けることになりました。

パターソンは有能なセールスマン、トーマス・J・ワトソン(1911年コンベンションの写真の右から2番目)を採用しました。

後にバッファローにあるNCRで活躍することになったワトソンは、それ以前は、ニューヨークやペンシルバニアの田舎で、馬がひくワゴンの背にピアノを乗せて売り歩く「出張販売員」でした。彼は1899年にローチェスター営業所のマネージャーに昇進しました。

パターソンとワトソンは次々と競争相手との闘いに打ち勝っていきました。 しかし、最初の独占禁止法であるシャーマン法の成立によって、1912年から13年にかけて、NCRはついには連邦政府の告発を受けました。パターソンや会社幹部21名は、レジスター事業における営業制限および不当独占に係わる三つの訴因に有罪の判決を受けました。

1913年のデイトンの大水害の際、NCRは一切の業務を停止し、会社をあげて「市民救助隊」を組織し、竜巻と洪水の町の救助にあたりました。川が氾濫しないうちに従業員は郊外を奔走して食料や必需品を集めました。工場内の木工場では、不格好だが十分使用に耐えるボートを5分間に1そうのスピードで作りました。NCRは家を失った人々を工場に収容し、2,500人に炊き出しを行い、電気や飲み水を供給しました。また救援物資の特別貨物を、ニューヨークから取り寄せました。

パターソンの救助活動は広く世に知られるところとなり、彼は全国的名士になりました。その結果、独占禁止法違反訴訟においてもパターソンとNCRを支持する世論が強まりました。多くの人々がウッドロー・ウィルソン大統領にパターソンとNCR幹部恩赦の請願を寄せましたが、パターソンは「事件はまだ係争中だ。私は恩赦を求めないし、受けようとも思わない。私が望むのは正しき裁判だけである」と答えました。 1915年、シンシナチの控訴裁判所は、第一審で却下されたNCRの提出資料を証拠としてみとめ、原判決を破棄しました。

ワトソンがパターソンの元を去るときには、既にナンバー2のポジションまで上り詰めていました。その後彼は、C.T.R.(コンピューター・タビュレーティング・レコーディング)社に勤めました。そしてワトソンは“THINK!(考えよ)”という標語を持っていき、その後彼が行う全てのトレーニングに使ったのでした。この会社は後(1924年)に、IBMと名を改め、ワトソンは社長に就任しました。

第一次世界大戦が勃発した1914年、欧州におけるレジスター普及に奔走していたジョン・H・パターソンは、最後の列車でベルリンを離れました。彼は1919年、戦後初めてベルリンを訪れた米実業家の一人でした。

1922年にパターソンが世を去ると、その子フレデリックが後を継ぎました。
彼の死去は新聞に全段抜きの大見出しで報道されました。社会福祉制度への拠出や、第一次世界大戦の支援献金をしていたため、パターソンは大した遺産は残しませんでした。彼は「あの世に金は持っていけない」と常日頃考えていました。

人間パターソンは、新しい世代の社員や市民にとっては遠い過去の人であるかも知れませんが、彼が導入したアイデアの数々が今日、日常の職場に今も定着しています。

パターソンの記念像

“We are part of all we have met.”
– John H. Patterson
デイトン市の大洪水の時に、愛馬スピンナーに乗り、
市民救助のために町を駆け巡ったパターソンの記念像
(デイトン市パターソン通りの高台に立つ)

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